カネカネキンコ愛の劇場 最終回


前回


 病院の待合室で。廊下の真ん中で。分娩室の前で。俺はそわそわしていた。そわそわそわそわそわ。


「あれ、こんな時間になにをしているの」と声かかけてきたのは、この病院の外科の先生だ。いつもの白衣ではなく、私服姿である。時間的に考えると、帰宅直前のようだ。


「あ、その。妻が」


「そうか。今日なんだ。おめでとう!」


「ありがとうございます」


「ようやく父親になるんだ。もう酒はやめなさいよ。飲んだら、また包丁でバカなことをする」


 先生が、俺の左手に視線を送った。俺の左手のひらには大きな傷跡が残っている。


「その後、変わったことはないか? 痛むとか、動かしにくいとか」


「大丈夫ですよ」


「変わったことがあったら、いつでも来なさいよ。それじゃあ」


 あの日、女房のお腹にいる女の胎児に萌えた俺は、持っていた包丁で陰惨な事件を引き起こそうとしてしまった。怒涛の欲望の嵐の中、一瞬だけ甦った理性は、俺に「左の手のひらを包丁で突き刺して耐える」という行動をとらせた。この行動の効果はバッチリで、痛みのおかげで「胎児萌え」はどこかへ消し飛んでしまった。


「なにしてんのよ、バカ!」


 まさか己の腹が捌かれる直前だったことなど知る由もない女房は、左手を包丁を刺しているバカ亭主を見てびっくり仰天。とるものもとりあえず、近所の総合病院へ俺を連れて行き、そこの外科医に突き出したのだ。この病院には、女房が通っている産婦人科もあった。


「なんで包丁で手を?」と医師に尋ねられた俺は、とっさに「浴びるほど、酒を飲んで帰宅したんです。そしたら、女房が妊娠していると教えてくれて、うれしくて、夢じゃないかと確かめるべく……」と答えた。それ以来俺は、この病院で「夢と現実の区別をつけるのに、包丁を用いた男。あと、こいつ酒乱」として伝説になったのである。


 そんな伝説を持つ男でも、この病院の外科の先生たちは丁寧に治療をしてくれて、傷は残っているものの、後遺症なんかもほとんど残っていない。


 それから色々あって、女房の出産である。そんなわけで、俺はそわそわしている。病院のそこらじゅうを歩いて、そわそわしているのだ。


 先生と別れた俺は、少し落ち着こうと思って分娩室前のイスに腰掛けた。ここ最近の、一連の騒動のことが頭をよぎった。


 俺が自分の手を刺してから数週間後、井村さんは、とあるアニメの愛好家が集まって開催されたマラソン大会(そのアニメの人気キャラの趣味が、マラソンだったから開催されることになったらしい)の給水場で、大量に吐血して倒れ、そのまま病院へと運ばれたらしい。かなり疲労が重なっていたらしく、それが原因とのことだった。井村さんは、そのまま亡くなった。


 大会関係者によると、「スタッフとして参加したい」という申し出があり、給水場に待機してもらうことになったのだという。なぜそんなイベントに井村さんがスタッフとして参加していたのか家族にもわからない。井村さんと共に、このイベントに参加していたヒコマツさんなら、なんらかの事情を知っているとみられたのだが、井村さんは「ちょっとおかしい状態」だそうで、とてもじゃないが事情を聞けそうにないらしい。



「親父の吐血は、いきなりだったそうなんです。ちょうど親父に水を飲まそうと口元に近づいていたヒコマツは吐いた血をすべて浴びてしまった。それでおかしくなってしまったみたいです」


 とは、細かい手続きをしに「ことぶき園」にやってきた時、井村さんの長男の話である。


「ここだけの話ですけどね、弟、本当におかしいんです。ありったけの金で、
その、アダルトビデオやエロ本、精力財なんかを大量に買い込んで、部屋からでてこないんですよ。部屋の中からは『かわいいよ』『萌え』なんてうなり声が聞こえてくるそうですし。給料もすべてアダルトグッズにつぎ込んで、1円も家にいれない。近々、その手の人を更生する施設にいれようかと思います」


 ヒコマツさんは、井村さんの血を体液を大量にその身に浴びたヒコマツさんは、女子高校生萌えよりも、女子中学生萌えよりも、女子小学生萌えよりも、女子幼稚園児萌えよりも、女の赤ちゃん萌えよりも、女の胎児萌えよりも、さらに深い、ロリコンの境地に達してしまったようだ。他人に危害を加えず、己1人で処理できる分、女子小学生萌えとかよりはマシな気がする。


 一連の事件はこうして終わったわけだが、俺のロリコン化は完全には治ってはいない。さすがに「胎児萌え」なんてレベルではないが、小さい女の子を見ると目を離せなかったりする。


「うまれましたよ!」


 看護士さんに呼ばれ、急いで分娩室へ飛び込む俺。女房は疲れ果てたようでぐたりとなっている。


「ほら、元気な女の子ですよ!」


 看護士さんが、生まれてばかりの我が娘を見せてくれた。


 かわいかった。とてつもなくかわいなかった。愛しくてたまらなかった。この愛しさか、親が子に向ける愛なのか、性倒錯者が性の捌け口へ向ける愛なのかは、俺にはわからなかった。